晩年

(1)釈放後

ポーツマス条約締結(明治38年9月5日)から約3ヶ月後の12月8日、ようやく釈放された成忠は東京に帰着する。長年の夢が挫折したことによる落胆と悔恨、また犠牲となった同志への自責の念にかられ、しばらく虚脱したような日々を送ったという。

しかし明治42年、露領沿海州水産組合が組織され、その組合長に推されると精力的に漁業家の団結を図り、日本の漁業権益保護確立に力を尽くした。沿海州における日本の漁業はめざましく発展し、「日魯漁業のほか、大洋漁業、日本水産、極洋捕鯨などの大会社が、それぞれ北洋漁業を推進せしめ、とくに大正後期には、その本拠は北千島のシュムシュ島旧片岡湾付近に置かれ、郡司の素志(かねての願い)はここに大きく身を結んだといってよい」と豊田穣氏は『北洋の開拓者』で述べている。

(2)シベリアへの特殊任務

1914年、第一次世界大戦が始まるとまもなく、成忠は参謀本部第二部から呼び出しを受け、特殊任務を帯びてシベリアへ赴く。この特殊任務が何であったか記録がないので詳細は不明だが、夏堀正元氏は『北の墓標』の中で、成忠がロシア語が堪能であったことを見込んで諜報活動を依頼したものであろうと推測している。

先日、遺品の整理中、当時の名刺およそ300枚を発見したが、そのなかに浦潮本願寺住職であり派遣軍総督布教師という肩書きで諜報活動をしたとされる太田覚眠のものが19枚あった(名刺の上に手書きの文章が書かれている)。これらは夏堀氏の推論を裏付ける証拠といえるかもしれない。

(3)最期

関東大震災で東京芝の家を失った成忠は小田原の妙華寺内の侘住居に転居する。この頃から病に伏せることが多くなり、大正13年8月15日心臓麻痺の発作により65歳の生涯を閉じた。のち東京で葬式を行うが、このときの写真が郡司家に今も残されている。放心したようにあらぬ方向を見つめる露伴と、すべてを諦観したかのようにまっすぐこちらを見つめるかね代(未亡人)の表情が印象的な一枚である。

最後に長男智麿が墓石裏に残した撰文をもってこの項を終了する。

「先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。昭和五年八月十五日  郡司智麿」

 

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