第一次千島開拓

郡司成忠の千島探検を題材にした絵はがき。
絵はがきの他に錦絵や紙芝居、絵本、双六などが全国に売り出され、
大祭日には肖像を描いた煎餅を配る小学校もあったという。

(1)ボートによる千島探検

趣意書が発表されるや、たちまち世間の注目を集め、志願者は激増、たちまち百余名となったが、頼りにしていた肝心の寄附金はまったく集まらず、海軍当局も政府も相変わらず何の援助もしなかったので、報效義会には一隻の船も資金もなかった。このときの志願者のなかに、のちの南極探検で有名になる白瀬 矗(関わりのあった人々参照)もいた。

そんな折、成忠は横須賀鎮守府で短艇数隻が不要になったことを知る。「そのボートを払い下げてもらえば千島まで行けるのではないか」との考えが成忠の脳裏にひらめいたのだ。むろんボートでの航海は止むにやまれぬ窮余の一策だが、ボートで3570kmを航海することは運用術に長けた成忠にとって必ずしも荒唐無稽な冒険ではなく、実現可能な挑戦であった。

成忠は報效義会員にこう述べたという。
「大きな軍艦を操縦するのも、ボートを扱うのも、根本の理屈は同じである。部下の統御、船内の物資の供給と使用、糧食の供給、配分、航海術の向上、そして上官と部下の心理の交流など、ボートはむしろ大鑑に勝る」(『北洋の開拓者』豊田穣著より)
ボートによる千島探検は、新聞に大々的に報じられたことを期に大きな反響を呼んだ。近衛篤麿公爵を始めとする華族、岩崎弥之助ら財界人からぞくぞくと寄附金が寄せられ、天皇からも恩賜金が贈られるに至って成忠は一躍時の人となった。

(2)苦難の航海

ついに明治26年3月20日、5隻のボートで成忠と報效義会のメンバーは千島へ向けて出発した。この日、隅田川の川縁は万を超える人波で埋まり、空には花火の音、川面には歓呼と喝采の響きがこだましたという。(この様子を描いた「郡司大尉千島・占守島遠征隅田川出艇之実況」と題する錦絵(複写)は、現在、学習院史料館に寄託。)

しかし出発から二ヶ月後を過ぎた5月24日、大久喜沖で暴風雨にあい、手に入れたばかりの鼎浦丸が難破、さらに白糠付近で一艘の短艇が遭難し、一挙に19名の会員の命が失われるという悲劇に見舞われる。

世論はここぞとばかりに成忠を非難した。そんな最中、傷心の成忠自身が負傷、会員の結束も乱れるなど絶望の淵にたたされた成忠であったが、必死の説得で会員の結束を立て直し、軍艦「磐城」の助けを借りて、8月31日ようやく念願の占守島に到着する。隅田川を出発して実に163日目のことであった。

(3)占守島での探検、拓殖

成忠らは早速占守島に穴居小屋を建て、内務省に依頼されていた気象観測のほか産物、港湾、千島全島の通観など綿密な調査を行った。(この調査記録は北大に寄贈した『千島国・占守島探検誌』に詳しい。)

7人全員が無事占守島での越冬に成功し、開拓も順調に進んでいた明治27年7月1日、成忠は占守島を去らねばならなくなる。清との戦争を目前にして海軍が成忠の水雷術の腕前を必要としたためである。成忠は身を引き裂かれる思いで白瀬に後を託し、占守島を去った。白瀬ら残留組はさらに一年占守島での厳しい生活を続けたが、函館区長からの引き上げ命令を受けて明治28年8月占守島を去る。これで第一次千島開拓は終わる。

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