第二次千島開拓

(1)自給自足のユートピア建設の夢

日清戦争が終結し、ようやく召集解除になった成忠は、早速第二次報效義会を結成すべく奔走した。当初より成忠の強力な支援者であった谷干城らが議会に提出していた「報效義会保護案」がようやく成立し、29年度から3年間にわたり28500円の補助金が政府から出される事が決まったことも幸いして、新旧あわせて総勢57名の会員が集まった。

成忠は第二次報效義会の目的を探検、調査よりも、北千島を中心とした漁業、農業の振興に置き、本格的な拓殖事業を成功させることを目標にした。そのために家族ぐるみでの移住をすすめ、成忠自身も妻子を伴い明治29年9月6日、全員で占守島へ向かった。

(2)成果をあげた拓殖

第一次千島探検での苦い経験を生かして成忠は極めて綿密な年間事業と生活形態を作り上げ、拓殖2年目には学校、病院も建てることができた。傍若無人な密漁船に悩まされもしたが、養豚や牛馬飼育も手がけ、小さいながら缶詰工場も誕生させた。明治36年には会員数は170名になっていた。だがその一方で、成忠のやり方に不満を感じ、会の結束を乱す者も現れだした。拓殖が軌道に乗り始めた一方で、寒冷地での開墾拓殖という、地道な努力と根気を必要とする仕事に嫌気がさす者達もまた確実に増えたのである。

(3)8年目の挫折

日露開戦の知らせがもたらされたのはそんな時であった。成忠は、すぐさま義勇隊を組織し24名を率いてカムチャツカへ進撃する。この進撃の真意について、高木卓氏は「異境に持ち船を焼かれ拉致された邦人漁業者の救済」(『郡司成忠大尉』)と書き、豊田穣氏は「満州方面のロシア軍に対する陽動作戦」(『北洋の開拓者』)、夏堀氏は「郡司を悩ませていた会内の動揺や不満を漁業権の拡張という経済侵略によってそらし、会員の団結をはかろうとした」(『北の墓標』)と書いている。そのいずれでもあったという気がする。

一行は無事カムチャッカに上陸し、成忠は南部西海岸のヤヴィノ村で「この地を日本の領土と認める」という標柱を建てた(記念碑の項参照)。しかし、その後まもなくコサック兵に襲われ、14名の死者を出した。成忠は官警に捕らわれ、生き残った会員は命からがら遁走した。会長を敵地に監禁された報效義会はついに引き上げを決定、あくまで残留を主張した14名を除き、56名が占守島を去ることになった。日清戦争後拓殖の夢を抱いて占守島に訪れた日からほぼ8年後の明治37年9月29日のことであった。

(4)小村外相への手紙

監禁されて早一年になろうとする頃、米国東海岸ポーツマスで日露講和会議が始まり、日本からは小村寿太郎外相が全権として出席するというニュースが成忠の耳に入った。かねてより北洋の漁業権を確保したいと念じていた成忠は、幽閉の身ながら小村全権宛に手紙をしたため、フランス人の毛皮商人に託した。手紙はその後何人かの手を経て小村全権の手に届き、「ポーツマス条約」の第11条「ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本にも行使せしめる」という項目を挿入することに成功したといわれる。

写真:郡司成忠と奥村五百子女史(築地の報效義会事務所にて)

第二次千島開拓時代、成忠は、主に北千島アイヌの布教と教育のため東本願寺の奥村円心に色丹島への移住を懇願、師は夫人を伴って同島に滞在し、布教に努めたという。円心は愛國婦人會の創立者として名高い奥村五百子女史の兄に当たる。成忠と親しかった小笠原長生、榎本武揚、近衛篤麿らが奥村女史の活動を支援していたので、そのご縁で繋がりができたのであろう。背後の和歌「雪と消え花と散りても後の世に 残るは人のまことなりけり」は、千島から上京して榎本武揚子爵邸を訪問、辞去する際に成忠が詠んだ和歌である。

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