記念碑、墓碑など

志士の碑  占守島 郡司が丘 大正8年(1919年)

 北千島で開拓中に亡くなった「報效義会」(ほうこうぎかい)会員の慰霊碑。カムチャツカの漁業がさかんになって塩の需要が増えたのを喜んだ瀬戸内海の製塩業者が、感謝の意をこめて贈ったものという(夏堀正元著『北の墓標』より)。広瀬彦太著『郡司大尉』に写真がある他、平成2年9月28日号『フォーカス』誌上に写真家、阿部幹雄氏撮影の写真が掲載された。「志士の碑」の揮毫者は郡司成忠である。

郡司大尉の碑(永鎮北陲) 占守島 郡司が丘 昭和12年8月(1937)

郡司大尉と「報效義会」会員らの努力と愛国の精神を後生に伝えるため北千島水産会が建立した(『北洋の開拓者』豊田穣著より)。題字の揮毫者は、前年の「二・二六事件」で暗殺された斉藤實首相である。揮毫は斉藤の暗殺前に出来上がっていたので記念碑に刻むことができたという。「斉藤は自分の書いた題字が刻まれた友人の記念碑を永遠に見る機会を失ったわけである」と綱淵謙錠氏は『濤』の中で述べている。

別所翁之碑  占守島 昭和10年(1935)

報效義会解散後も最後まで占守島に残留し生涯を終えた別所佐吉を記念して建立された。
碑文は幸田露伴、揮毫は成忠の次男、郡司千早による。

郡司大尉短艇行溺死者記念碑  青森県八戸鮫町、浮木寺境内内

青森県八戸の鮫浦、大久喜沖で鼎浦丸が、白糠沖で三番艇が遭難し、隊員19名を失った。その溺死者のために建立された記念碑。TBSブリタニカ発行『未知への挑戦者-日本のリーダー』第10巻「郡司成忠」(夏堀正元著)に写真がある。

三番艇遭難碑 青森県八戸

白糟沖で遭難した木南正照二ら9人の乗った三番艇の遭難碑。八戸市の有志によって建立された(『長谷川清傳』1972年より)。

墓碑 東京都内、池上本門寺

「従六位勲五等郡司成忠墓」の揮毫は成忠の友人の書道家、仙波蘭堂(日下部鳴鶴の内弟子)による。また墓石裏の碑文は成忠の長男、郡司智麿による。郡司家の墓地に隣接して幸田露伴、延ら幸田一族の墓石があるのは、成忠自身が生前この墓地を郡司家と幸田家のために求めたからである。(墓石の写真:晩年のページへ)

標柱 ハバロフスク博物館(ロシア)

明治37年7月、日露開戦を知った郡司は、義勇隊員を率いてカムチャツカ南部西海岸のヤヴィノ村に上陸し、日本語で「天地長久日本領 報效義会会員占領地 明治三十七年七月十四日」と筆で書いた。その日本文字の標柱横わきに別の立て札をたて、これには通訳が同じ毛筆で露文を書き、念のため英文も添えた。文意は「この地は日本占領地なり、故にこの標柱に触るる者は殺さるべし。日本軍司令官 郡司成忠」である。この標柱はのちにロシア側によって取り払われ、ハバロフスク博物館に保存された。廣瀬彦太著『郡司大尉』と夏堀正元著『未知への挑戦者―日本のリーダー第10巻』に露文と英文の書かれた立て札の写真が掲載されている。

註:掲載の写真は報效義会五十周年記念の昭和18年3月14日に記念絵はがきとして参列者に配布されたものである。

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