生い立ち


父成延の愛用の矢立。今西家の紋が入っている。

(1)生い立ち

成忠は幕臣幸田成延の次男として万延元年(1860年)、三枚橋の幸田屋敷に生まれた。兄弟のなかで一人だけ郡司姓なのは、幼少時に嗣子のない郡司家の養子となったからである。郡司家は初代利清より代々将軍家に仕えてきた表坊主の家柄で、しかも幸田家とは親戚の間柄であった(*註1)。継子がないまま十代当主が急逝した郡司家の危機を救う為、成延は次男成忠を郡司家の急養子として跡を継がせたのである。しかし、江戸幕府が瓦解したことで養子に行った意味がなくなり、成忠は郡司姓のまま、露伴ら兄弟とともに生家の幸田家で育った。

(2)年齢詐称で海軍兵学寮へ入学

成忠13歳の明治5年、父成延は長男の分を出すついでに弟の成忠の分まで海軍兵学寮への願書を出した。成忠の方は年齢が不足していたので2歳サバを読んで15歳にしたのだが、兄の方は身体検査で不合格となり、弟の成忠が合格してしまった。この運命のいたずらによって成忠の生涯は方向付けられたといえよう。

成忠は最年少の生徒ながら、運砲科第二先進号生徒の首席として軍艦・筑波乗り組みを命じられ、卒業時には優等生に送られる望遠鏡も拝受している(*註2)。兵学寮の同期生には、のちの「二・二六事件」で惨殺された斉藤實(関わりの深かった人々の項参照)、その後進んだ海軍大学の同期では加藤友三郎(第21代内閣総理大臣、元帥海軍大将、大勲位、子爵)など、錚々たる面々が揃っていた。(*註3

(3)千島への着眼

成忠が千島列島最北端の占守島の存在を初めて知ったのは兵学校卒業前の明治11年、黒田清隆開拓長官・川村純義海軍卿(関わりの深かった人々の項目)に随行して軍艦・金剛で露領ウラジオストックを訪問したときであるという(『北の墓標』夏堀正元著より)。「このときロシアではちょうどシベリア鉄道を敷設する計画が確定し、ヨーロッパからも政治家や技師達がウラジオストックにきていた」(同書)。黒田達の話し合いを末席で聴いていた郡司は「国際貿易における占守島のしめる重要さ」と「占守島に対するロシアの執着」を痛感する(同書)。

またその翌年の明治12年、成忠は軍艦筑波に乗ってカナダ、バンクーバーへ航海するが、そこで耳にしたのは占守島周辺海域における外国密漁船の横行であった。国益上でも国防上でも千島、とくに占守島が極めて重要な地位をしめていることを痛感した成忠は海軍当局や政府へしきりに進言するが、政府の反応は極めて冷淡であった。

ようやく千島への関心が世間に芽生えるのは、明治天皇が侍従片岡利和一行を千島へ派遣、踏査を命じた明治24年以降である(*註4)。これを機に岡本監輔が千島義会を組織したが失敗に終わり、相変わらず政府は無策であった。その頃、成忠は密かに千島に骨を埋める覚悟を決めていた。あらゆる千島の文献を集め、専門書を読み、綿密な計画を練っていた。ついに明治25年、みずからエリート・コースであった海軍大尉を退いて予備役となり、『千島移住趣意書』を世間に公表し、開拓団「報效義会」(*註5)を結成する。

脚注

  1. *註1:幸田家と郡司家の詳細な家系図は郡司保子『郡司家四百年物語』新人物往来社(2004)に収録。
  2. *註2:この望遠鏡は学習院大学史料館に寄託してある。
  3. *註3:二人はともに海軍大学の一期生である。郡司家には1877年の成忠の成績表が残っているが、すべて英語で書かれている。『郡司家四百年物語』にこの成績表の写真が収録されている。
  4. *註4:明治天皇は外国船によって国益が侵犯されていることを憂慮して片岡らを派遣した。この調査は片岡侍従一行に同行した笹森儀助の『千島探検』(明治25年)に詳しい。なお千島に片岡の地名があるのは片岡侍従の名をとったものである。
  5. *註5:「報效義会」はこの壮挙に深い関心を寄せた明治天皇の意志によって、時の宮内大臣・土方久元が命名した(『北洋の開拓者』豊田穣著 講談社 1994年より)。

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