成忠と関わりの深かった人々

近衛篤麿

公爵、貴族院議員。第七代学習院院長。千島へ出発の際、来賓として壮行会に出席、成忠に送辞を送った。この送辞(黒田侯爵らとの連名)は郡司家に今も大切に保存されている(写真は郡司保子著『郡司家四百年物語』に所収)。近衛公爵は終生成忠の良き理解者、支援者で、成忠は遺言状でも「近衛家の方々へお礼」という一文を残している。

榎本武揚

海軍中将、子爵。駐露全権公使時代、日本人として初めてシベリアを横断したことでも知られる。明治26年の千島探検出発の際、成忠は榎本家を訪問し、別れの挨拶をしている。榎本子爵は壮行会にも出席、最後に送別の辞を述べた。成忠は遺言状でも「榎本家の方々へお礼」という一文を残している。

川村純義

海軍大将、伯爵。枢密院顧問官。皇孫殿下(のちの昭和天皇)の養育掛も務めた。白州正子の母方の祖父でもある。成忠の良き支援者であったが、時には鋭い忠告もした。成忠は遺言状で「川村家の方々へお礼」という一文を残している。

斉藤實

子爵。海軍兵学校六期の同期生。海軍大臣、朝鮮総督を経て、第30代内閣総理大臣。昭和11年の内大臣当時「二・二六事件」で暗殺される。占守島に残る郡司の記念碑の揮毫者である。

岡田啓介

海大の後輩。海軍大将、第31代内閣総理大臣。「二・二六事件」で襲撃されるが、あやうく難を逃れた。岡田は海軍時代、水雷艇乗りだったという。その点で軍艦高千穂の水雷長を務めた成忠と接点があったようだ。郡司家に「海軍大将 岡田啓介」(軍事参議官は手書き)と印刷された名刺が保存されている。

谷干城

子爵。陸軍士官学校校長。第二代学習院院長。終生成忠のよき理解者であり支援者であると同時に、もっとも親しい友人であった。出発の際の壮行会で最初に告別の辞を述べた。苦境にある成忠らのために、日清戦争前から「報效義会保護案」を議会に提出すべく奔走した。郡司家には谷子爵夫人の写真も残っている。成忠は遺言状でも「谷家の人々へお礼」という一文を残している。

小笠原長生

海軍兵学校、海大の後輩。日清戦争の記録「海戦日録」が有名。また皇孫殿下(のちの昭和天皇)の教育にあたったことでも知られる。成忠の8歳年下であったが親友であり強力な支援者であった。明治三十四年に成忠が提出した「報效船隊設立趣意書」にも賛成者として名を連ねている。成忠は遺言状でもお礼を述べている。「子爵 小笠原長生」(住所は鉛筆の手書き)と印刷された名刺が残っている。

横川省三

東京朝日新聞社の記者。成忠の千島探検に同行し、「短艇遠征記」を新聞誌上に発表する。のち日露戦争で沖禎介とともにシベリアに潜入、鉄道爆破を企ててロシア兵に発見され、明治37年4月、ロシアの満州総督によりハルビンで銃殺された(綱淵謙錠『濤』より)。

白瀬矗

陸軍将校。成忠が報效義会を結成したのを聞き及びこれに志願する。報效義会は海軍下士官兵再生の目的もあり、海軍出身者に限ると成忠が断ったにもかかわらず、強引に第一次千島探検に参加する。日清戦争前、成忠の父成延のかわりに占守島に残されたことを恨み、報效義会脱退後に執筆した『千島探検録』において成忠と報效義会に激しい批判を浴びせた。しかし、南極探検に向かう船を調達できずに苦しんでいた白瀬に成忠は黙って報效義会の持船である第二報效丸を譲ったのである。この間の事情については「東京人」平成8年一月号 明治の群像@「郡司成忠」(横田順弥著)および『極―白瀬中尉南極探検記』(昭和58年 新潮社 綱淵謙錠著)に詳しい。なお廣瀬彦太著『郡司大尉』には白瀬の追悼文も収録されている。